まずはこんな考えから
[speech_bubble type=”ln-flat” subtype=”R1″ icon=”kaon-yoga-15Oct.jpg” name=” ”]「人は平等ではありません!」[/speech_bubble]こんなことを言うと「そんなことないです!」ってお叱りをうけそうです。
でも、こう言ってみたらどうですか?[speech_bubble type=”drop” subtype=”L1″ icon=”kaon_profile1511.jpg” name=” ”]
「人はそれぞれ、みんな違うんです」[/speech_bubble]
ほとんどの方が賛成していただけるのじゃないかな。
違うということは、等しく同じではないってことだから、実はこの二つの文は同じ意味なんです。
そこで、この「平等ではない」ってことをちゃんと意識してみましょう。
「平等ではない」ということ、それはつまり―
他人と比較したり、うらやましく思ったりする必要がないということに気づきませんか。
だって、人は平等じゃないんですもの。
あの人ができることを自分ができなくってもしかたない。
それは努力の差とかじゃない場合もあるってこと。
だって同じでは、ありませんから。
だから、それを理由にしてガッカリする必要もないってこと。
あの人が上手くやっていることを自分もうまくやりたいって思うなら、もちろん頑張ってみればいい。
でも、同じようになれるとは限らないから、それに対してがっかりしないでねってことなんです。
平等でも、同じでもないからこそ!
人は似ているように思えても、みんな「違う」のだから、その違いの中で自分の得意なことをやればいいのです。
自分にできることをするから、少しの努力で他の人よりも何倍も効果的に上達できるはずなのです。
ここで問題です。


これに対しては、一つのシンプルな回答があります。
[speech_bubble type=”ln-flat” subtype=”R1″ icon=”kaon-yoga-15Oct.jpg” name=”カオン”]それはなによりも「自分を知る」ことが大切です。
[/speech_bubble]
私の体験談
ちょっと長くなりますが、私の話を。
私は昔、小学校の先生になりたいって思っていた時がありました。
理由はこうです。
小学生は、まだまだ素の自分が残っていて、あまり他者に左右されていません。
だから、こういう時期にしっかりと自分の指針みたいなものができると、あと後苦労しないだろうなって考えていたからなんです。
これね、実は、私自身が小学生の高学年の時の考えなんです。
こんな風に考えられる私は「小学校の先生になるべき!」って思いました。
しかし、無常にも現実は私に襲いかかります
その後、中学高校と進むにつれて、小学校の先生になるには、全教科習得しなくてはならないということを知ります。
勉強自体それほど得意ではない上に、音楽や体育も、となると私の能力を完璧に超えていました。(笑)
それでも一応そういう大学を受験しました。そして、一校だけ補欠合格。
でもね、ここでやめようと思ったんです。
私には小学校の先生は無理だって。
そして、自分を知った今―
その後で紆余曲折ありました。
現在は、こうやってヨガを通して生徒さんのカラダや心の指針となるものを探す手伝いをしています。小学生の時になりたかったものとは違うけど、やりたかったことをやっているなーって思います。
これは「小学校の先生」という枠にこだわらなかったから、もしくは「他の先生になろうとしている人とはどこか違う」ということを受け入れたから、今があるのかなと思うのです。
「自分の指針」を探す、育てるお手伝いをするという根幹は揺らいでいませんからね。
自分探し序章のまとめ
「人は平等ではない」
「人はみんな違う」
この2つをしっかりと意識すると、できる私もできない私も全ていとおしく、そのままの自分を愛せるようになります。
言い換えたら、他人との比較をしなくなるんです。比べても仕方ないですから。
そうやって初めて、自分とは何者なのかを知ることができるのです。
自分を知るための方法や考察は、次回の記事にて。