言葉と心の不思議な関係
「言葉を奪われるということは、文化(思考)を奪われること」という話を聞いたことはありますか?
例えば、ある国(A国)が別の国(B国)に対して、B国の言葉の使用を禁止し、代わりにA国の言葉を使わせようとしたとします。
B国には、「鶯色(うぐいすいろ)」という、美しい緑がかった茶色を表す言葉がありました。でも、A国にはそれを表す言葉がなかったとしましょう。最初は、文章でその色を説明していたものの、次第に面倒になり、似たような色で代用するようになっていきました。
そして、鶯色を知っているB国の人々が年老いていなくなり、いつしか鶯色という言葉は、その国から消えてしまったのです。
この例え話は、色という目に見えるものについての話なので、実際の鶯色がなくなるわけではありません(別の名前に置き換えられるだけかもしれません)。そのため、それほど大変なこととは感じないかもしれませんね。
言葉は目に見えない心も表す
でも、言葉は、概念や思考、感情といった、目に見えないものも表します。もし、目に見えない概念や思考を表す言葉がなくなってしまったとしたら…。その概念や思考自体がなくなってしまうと思いませんか。
例えば、「慈悲(じひ)」という言葉に使用禁止命令が出たとします。最初は、「いつくしみ哀れむこと」などと説明するかもしれません。しかし、段々と使われなくなり、その言葉があったことすら知らない世代が生まれて大半を占めるようになれば、「いつくしみ哀れむこと」そのものが、一般的な人の心の動きではなくなってしまうのではないでしょうか。
なぜ、こんな話をするのか?
私が何を言いたいのかというと、最近、感情や思考がとても単純化している人が多いと感じているからなんです。
皆さん、友人や家族とのやり取りを、スタンプだけで済ませてしまったりしていませんか?
もちろん、「ありがとう」の中に内包される気持ちに合わせてそれぞれスタンプを変えている、という方もいるかもしれませんね。
でも、そのスタンプの絵柄を見比べないと、感謝の気持ちの質感の違いを見いだせない、ということにはならないですよね。
自分の感情の表現する能力についての面白い記事を見かけました。
これは、語彙力のある人とない人の比較で、比較図がとても秀逸です。ここまでの差があると、もうこの二人は住んでいる世界が違うんじゃないかな、と思えてしまいます。
(ちなみにこの記事では語彙力がない方がコミニュケーション力高いと評価しています。外国語の場合はそうかなと思いますが母国語の場合は語彙力高い方がいいとワタシは思います。)
言葉の色鉛筆が教えてくれること
また例え話で恐縮ですが、12色の色鉛筆を使うのと、24色の色鉛筆を使えるのとでは、見える世界、表現できる世界が大きく違いますよね。
私には、この差が内なる豊かさにつながり、その結果、自分の心を丁寧に扱うことにつながるのではないかと思えるのです。
ヨガのレッスンでも、体の感覚を言葉で表現することを大切にしています。例えば、「足の裏で大地を踏みしめる感覚」と表現するのと、「足が床についてる」と表現するのとでは、意識の向け方や深まり方が全く違います。
言葉は、私たちの内なる世界と外の世界を繋ぐ大切な架け橋です。言葉を豊かにすることは、心を豊かにすること。それは、ヨガを通して得られる心の静けさや充実感にも深く繋がっているのです。
ヨガと語彙力の関係
ヨガを通して自分の内面と向き合うことは、言葉に対する意識を高めることにも繋がります。体の感覚、心の動き、呼吸のリズム…それらを言葉で表現しようとすることで、自分自身への理解が深まり、より豊かな感性を育むことができるのです。実際にうまく表現できなくてもいいのです。表現しようとすることに意味がありますから。
私のヨガレッスンでは、ポーズの形だけでなく、そのポーズがもたらす内面の変化にも意識を向け、言葉を通して共有する時間を大切にしています。
言葉を大切に、心を豊かに
言葉は、私たちの思考や感情、文化を形作る大切な要素です。言葉を大切にすることは、心を大切にすること。それは、日々の暮らしをより豊かに、より丁寧に生きることに繋がります。
この記事を読んで、少しでも言葉について、心について意識を向けていただけたら嬉しいです。
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