魂は自然と呼応して育てるもの――『魂の暦』で心のヨガをしてみよう

目次

🌿 魂は自然と呼応して育つ——『魂の暦』から学んだ季節の内的リズム

先日からシュタイナーの『魂の暦』(マンフレッド・クリューガー・著 / 鳥山雅代・訳)の読書会に参加し始めました

この本自体は、もう何10年も前から、一人でちょこちょこと読んでいたのですが、なかなかすっきりと飲み込める感じにはなれず、かといってそのまま無視するというのでもなく、なんとなく手元に置いて時々眺めるというような感じで付き合っていました。

それが、ようやく準備が整ったのか、学ぶタイミングが訪れたように感じています。

季節が変わっていく中でワタシたちの内側にも、静かだけれど確かに何かが動いているということは感じていました。

けれど、この読書会を通じて、わたしたちは、自然の変化にただ動物的「反応」しているのではなく、内なる命が呼応していて、それは個人の魂の成長に応じてなされているということを、はっきり理解できたように思えます。

これまでずっとヨガの実践を通して、自分という存在の在り方をテーマに「内観」や「氣づき」を大切にしてきたので、この“呼応”という感覚はとても腑に落ちるものでした。

そして今、暮らしの場所として「人よりも木の方が多い場所」を選び、ここに住んでいることで、その感覚はより確かなものとして感じられるようになってきているようです。

外からの働きかけに、内側で静かに起こる変化

春の大地、夏の空氣、秋の実り、冬の沈黙。

自然界の変化は、外側の風景であると同時に、ワタシたちの内面にも確実に影響を及ぼしています。

『魂の暦』では、季節のうつろいを太陽と地球との呼応、そしてそれらによって導かれる人間の魂の成長のプロセスとして読み解いていきます。

春分後の第一週は、こんな詩です:

「はるか宇宙のかなたから 太陽は人間の感覚へと語りかける。 そして深い魂のなかから湧き立つ悦びが 世界を見つめる人間の目のなかで、輝く光とひとつになる。 すると思考は自己の狭い枠から 限りない空間の彼方へと広がり 人間の本質と高次の精神を かすかにつないでゆく。」

— 鳥山雅代訳『魂の暦』第一週

ざっくりと簡単に意訳してみると

春の光が、魂の奥に届き、宇宙の思考がわたしの存在の中で目覚めていく。
それは、自分の境界がゆるみ、自然とひとつになるような体感。

春になると、冬の間に固まっていた大地が緩み、その大地から芽が出てきます。同じように、わたしたちも自分というエネルギー場の境界がゆるんでくることで、周りの自然が自分の内側に流れ込んできて、自然とひとつになるような体感を得ます。

例えば、今まで茶色一色だった大地や山肌に少しずつ緑が増えてきているのに氣づく時どこからか桜の花の匂いがして周りを見回してみる時髪の毛が心地よい風で揺らされた時など……、これらの瞬間に、いつもいる自分がシュッといなくなってその感覚だけに開かれているという経験はありませんか?

季節の変化をより身近に感じる環境だからこそ

地方に移住してから、リアルで人に会う機会がとても減りました。

それによってかどうかはわかりませんが「自然がグッと内側に入ってくる」感じが以前よりも強くなってきているように思います。

風の匂い、木々のそよぎ、鳥のさえずり……。都会で生活していた時は、これらを意識的に探してそこにアクセスしようと試みていたように思います。でも人よりも木の方が多い場所に住んでいるうちに“ワタシ”が勝手に自然の内にほどけていくような感覚が生まれてきました。

この感覚が、『魂の暦』をただの文章としてではなく、身体と魂で実感するものに変えてくれたように思います。

地球の夢と目覚めに呼応する魂

それと、これは前にどこかにも書いたかもしれませんが、『魂の暦』を読み進める中で、もうひとつ興味深い視点に出会いました。

それは、春から夏は地球が“夢を見ている”季節であり、秋から冬は“覚醒している”季節だという考え方です。

これを初めて聞いたとき、「逆では?」と思いました。なぜなら、春や夏は命があふれ、目覚めの季節に感じられますし、その一方で、冬は自然が眠っているように見えるから。

でも、シュタイナーの視点は、肉体的な活動ではなく、魂の活動・意識の方向に注目しているのです。

魂が外へ向かう時期と内へ向かう時期の循環

春から夏にかけて、魂は外に向かって拡散して、宇宙の広がりの中に溶けていきます。

その状態は、夢を見ているように、自我の輪郭がぼやけている“夢見の季節”一方、秋から冬になると、魂は再び内に戻り、自己を深く見つめる“覚醒の季節”になるのです。

昔からワタシは、暖かい地域には長く住めない気がするとずっと思っていました。暖かい地域というのは、たとえば、ヨガの合宿で1か月ほど滞在していたことのあるコスタリカなど。

滞在中、とても過ごしやすかったし、心地いいのは実感としてありました。けれど、ここで一生暮らすとなると、どこか飽きてしまうんじゃなかなと、感じていたんです。

その理由は、ずっと同じ洋服(夏服のみ)を着るから飽きちゃうからかなー?なんて考えていたのですが、この「春夏=夢見」「秋冬=覚醒」という考え方を知った時、なるほどと思ってしまいました。

気候が穏やかで肉体には快適でも、魂の意識活動が鈍ってしまう。

意識が深く働く場所にこそ、“おもしろさ”や“生きている実感”があるということを察知していたようです。

自我の解放と、真の存在との出会い

『魂のこよみ』第三週では、自我がさらに世界に向かって開いていく過程が描かれています。

成長してゆく人間の自我はみずからを忘れていきながら おのれの原点を思いつつ 大いなる世界に向かってこう語りかける。

自分を縛りつけていたものがお前の世界のなかで自由になれば 私の真の存在が、今ここで解き明かされてゆく

— 鳥山雅代訳『魂の暦』第三週

この文章はちょっとわかりにくいのですが、解説ページにこんなことが書かれています。

わたしの自我が外に流れ出していく——わたし自身が今、外の世界になった。


冬の季節に内で確立されていた「個」は、春の光のなかで外へと開かれ
自我という輪郭がほどけ、広がり、自由になっていく

— 鳥山雅代訳『魂の暦』

息を吸ってばかりいれば身体は固まり、魂の活動も滞る。同じように、握りしめ続けていた「私らしさ」や「私であろうとする力」を、一度そっと手放すことも、生命の成長の一部なのだと表現されているように思います。

朽ち果てるべき自我を捨てることで、 わたしは“永遠”というものにふれる。

— 鳥山雅代訳『魂の暦』

「朽ち果てる自我」を小我と言い換えて、「永遠」を朽ち果てることなどない大我として言い換えて捉えると、とても理解しやすいのではないかな。

冬の間に内省して育てた自己を春から夏にかけて一旦宇宙へ明け渡してみる。それは自分を放棄するということではなくて本来のカタチを思い出すことなんですよーと言っているようです。

わたしの中で育まれたものを、世界へ

また呼応とは、受け取って終わるものではありません。

春に芽吹いたものは夏に輝き、秋に実を結び、冬には静かに内に蓄えられ、それはまた次の春の芽吹きへとつながっていくように、季節の移ろいと魂の変化は、まるで回りながら登ってく螺旋階段のようにみえます。

この自然の循環(呼応)は、ワタシたちの内側にも確かに息づいています。

自然 → 自分の内側 へ( 内観 )→ 自分の外側へ(表現) → 再び自然へ

『魂の暦』を読み進め、季節の移ろいを感じる日々の中で、改めて、この循環そのものが、命のリズムであり、魂の成熟のプロセスなのではないかと思います。

ワタシたちにとって、日記を書くことや、ヨガを実践すること、言葉にならない思いを絵や詩で表現すること。もっといえば、他愛のない家族とのおしゃべりなども全て含めて。これらは、自分の中に起きた変化を、外に還していく、ささやかな祈りのような時間ではないかと思えてきます。

日々は、宇宙との静かな対話

こんな風にまとめてみると、生きるということは、宇宙との対話の連続なのかもしれません。

『魂の暦』は、その静かなリズムが調和されるようにと導いてくれるものだと思います。

  • この季節、宇宙からはどんなメッセージが届いているのだろうか?
  • そのメッセージに、私の内側はどう呼応しているのだろう?

少し立ち止まったりしながら、自分の“内なる季節”を感じる時間を持つことが、魂を育てていく時間となるように読書会をつづけていこうと思っています。

毎回ではないかもしれませんが、自分のために、変化を外に還せるように、こうしてまとめていこうと思っています。

さて参加している読書会ですが、単発でも参加可能です。開催にあたっての動機など詳しくはこちらをお読みください。

https://note.com/nimadawa/n/nb4ea166e97ff

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