魂の暦の読書会に参加しています
シュタイナーって、なんだか「すごそう」っていう感じはするけれど、実際に読んでみると難解で、正直あまりよくわからないな〜と思っていました。
でも、みんなで訳の違う本を持ち寄って読み合って、少し解説してもらって、そこから生まれた疑問や氣づきを話し合っていくと、それまで雲をつかむようだった文章のかけらが、一つ、二つと手にできる瞬間が訪れて、そこから少しずつ「自分のこと」として感じられるようになってきます。
アップするのが少し遅くなりましたが、よかったらお読みください。


夏至の後の世界と身体の感覚
今回は、その読書会の第三弾。
夏至というひとつのクライマックスを越えたあとに訪れる、トーンの変化した週を取り上げてみました。
実際、田んぼのお世話という外仕事をしていると、夏至の前と後では空気感や身体の感覚に明らかな違いを感じます。その変化を、この3つの詩篇がそっと支えてくれて、状況を内側から理解する助けになっているように思いました。
光が「満ちて、ゆるむ」流れの中で
夏至を越えたあと、たしかに、日の出が少しずつ遅くなってきたのを感じます。あれだけ3時台に自然と目が覚めていたのに、今ではすっかり5時台に。
強くなり続けていた光は、いまや頂点を越えて、わずかに“ゆるむ”ように、静かに引いていっている感じがします。
魂の暦でいうと、第15週から第17週。
ここからは、“光の極み”がもたらした変化が、内側にじんわりと広がっていくような季節です。
第15週の詩より
まるで魔法にかけられたように私は
世界の輝きのなかで織り成す崇高な力を感じる。
それはおぼろな感覚のなかで
私の本質を包み込み
力を私に与えてくれる。
私自身ではその力を自らに与えることはできない。
なぜなら私の自我はもはや制限された中にいるのだから。『魂の暦』(マンフレッド・クリューガー・著 / 鳥山雅代・訳)
思考が働かなくなり、自我が宇宙に溶けていってしまったあと、もう自分ではどうすることもできないけれど、それでも「自分の本質は、崇高な力に包まれている」という感覚だけは残る。
思考が止まることで、逆に感覚が強くなる
この詩は、その“思考と感覚の対比”をとてもわかりやすく伝えてくれているように思います。
秋になって思考が再び動き出すまでは、たっぷりと感性に浸っていていいんだよと言われているような氣がします。
第16週の詩より
精神から贈り物を心の奥に大切に秘めよ。
予感が厳しく私に要求する。
それは神の恵みが熟しながら
魂の奥底で豊かに
自我の実りをもたらす為だからである。『魂の暦』(マンフレッド・クリューガー・著 / 鳥山雅代・訳)
思考が止まったときに働き始める感覚。
その感覚が未来に向かって開かれたとき、「予感」として立ち上がってくる。
感覚と予感の関係をこんなふうに整理してみました
- 思考=過去の情報
- 感覚=今の情報
- 予感=今の感覚が未来へと開かれたときに生まれるもの
そう考えると、すごくわかりやすい!
思考は過去を向いていて、感覚は今、身体から立ち上がるもの。そして、その感覚が未来を照らすとき、予感となって現れる。
予感を説明できないのは当たり前で、むしろ「理由のなさ」こそ大切にしていいんだと思います。
私はヨガやTRE, ippon blade®、瞑想の生徒さんに、よく「理由がないことを大切にしてね」と伝えています。
理由がないというのは、感覚や予感の領域で生きているということ。つまり“今と未来に開かれた自己”を体験しているということなのだと思います。
第17週の詩より
宇宙の言葉、世界の言葉が語りかける。
感覚の扉を通して
私の魂の奥深くにこの言葉をとりいれることができる。
「おまえの精神的、霊的深まりを
私の宇宙の、世界の広がりによって満たせ。
そしていつかきっとおまえのなかに
私を見つけだすときが来るだろう」『魂の暦』(マンフレッド・クリューガー・著 / 鳥山雅代・訳)
感覚を通して受け取った「宇宙の言葉」や「世界の広がり」が、やがて秋以降の“思考の季節”になっていく中で熟していく。
それが、「自我の実り」となって形を表してくる——そんな流れをこの詩は語っているように思います。
感覚の季節の中で、直感が育つ
夏至はたしかにクライマックス。
でもそれは終わりではなく、感覚の季節の始まりでもあります。
そこから静かに育っていく「直感」という小さな芽。
それがやがて秋になって、形ある“自我の実り”として表れる。
そんな、外側の季節と内側の魂のやりとりを、今年もまた、丁寧に感じていたいなと思っています。