英語よりまず日本語!
これは知り合いのお子さんの話。
彼は某有名大学の大学院に在籍される程の優秀な頭脳の持ち主です。六法全書なども読むことができるので、当然国語力もあります。
でも、本人曰く「日本語でうまく自分の思い、意見を言うことができない」とお母さん、私の友人に話したというのです。
その言葉に私の友人はちょっと困惑。
お子さんは「英語だとうまく言えるのに。英語を話す自分と日本語を話す自分では、人格が違うようだ。」とも言っているんだとか。
私もこの話を聞いたとき、何故だろう?と思いました。友人もとても明るくお話する方だし、彼の学歴をみるには意見をきちんと言えないとは全然思えません。
突然、ピンときました。
私は、息子さんが幼稚園の間インターナショナルスクールに通っていたというのを思い出したんです。
思い浮かんだ考えを彼女にこう話をしてみました。
「そのうまく喋れないっていうのは、自分と他者との区別がつきはじめる時期に、英語で自分の内側を表現するっていうことを多くしてきたからじゃないかな。
お家では、自分を表現しきれなくっても、親が彼の意志をくみとってあげられるよね。
だから、そのときの彼にとっては、自分を表現することについて、日本語よりも英語の方が重要だったんじゃないかなぁ。」
私たち人間が表現をするとき、まずは無意識の中で何らかが発生します。それが言葉によって思考として組立てられます。そして、これを他者にわかるかたちで表現します。
これは他者とのコミュニケーションに限った話ではありません。
自分自身との、自分の内側でのコミュニケーションも同様です。
たとえ話をしてみましょう。
皆さんが使っているスマホやPCにはアプリやソフトが入っていますよね。
これって、実はこんな流れで出来上がっています。
これを簡単に人間に例えてみると、OSが無意識、アプリが意識、私たちが使うことが行動です。
この機械用言語のAとBがそれぞれ対応していれば、無意識と行動のやりとりがすんなりと進められます。ですが、このAとBがうまく噛み合っていなかったら……?
私の友人のお子さんの場合
彼の場合、成長していくとき、自分の思考や感情を構築するときに触れていた言語が英語でした。なので、英語の時には、より自由に自分でいられると感じているのじゃないかと思います。
そのため、彼のように日本語の能力がきちんと身についていても、日本語では自分を表現することが難しいと感じているのです。
これは、さっきの例で例えるならiPhone用のアプリをAndroidではうまく扱えないということです。幸いなことに、人間の頭はPCやスマホよりももっとスマートなので、うまく扱えるようにできているんですけどね。
バイリンガルに育てたいのは分かります。でもね。
この彼の体験を聞いて、私は提案したいことがあります。
日本語できちんと自分のことをある程度表現できるようになってから、外国語を習わせるのがいいのじゃないかと思います。
言語だけを習得するなら早い方がいいのかもしれません。
そして、グローバル化や自分が英語を喋れないことからくるコンプレックスによって、何が何でも英語を習得させたいと思う方もいらっしゃるかと思います。
でも、ちょっと待ってください。
将来、英語だけで生活するというのならいいかもしれません。
でも、日本語をメインに、英語も使えるということを考えているのなら、英語の勉強を始める時期は少し考えた方がいいんじゃないかな。
言語は“言葉や表現”だけじゃない
ネイティブが使う慣用表現などには、往々にして辞書に書かれない意味が含まれています。これらは、その言語を背景にした世界の中で、自分が本当に体験し、経験してようやく会得することができるものです。
私は、意識の深さと、言葉の表現のレベルは比例していくものだと思っています。
この意識の深さという中には、複雑な感情や行動の精緻さが含まれています。言語を会得していくためには、本を読むだけでもダメ、学習するだけでもダメ、体験するだけでもダメ。この3つの要素が全て組み合い、言語の習得と共に、自分自身に関する深い意識が生まれると思っています。
なので、両方の言語で自分自身を充分に表現できるようになるためには、そのための環境が必要だと思います。たとえば、お父さんとは日本語、お母さんとは英語みたいに、二つの言語をほぼ同じくらいの分量使える環境にするとか。
そうすれば、両方の言語で自分のことを自然に表現することができると思うのです。
それとは別に……。
これは先の関西ツアーで出会った人たちといた中で聞いたことなのですが、日本語は高いエネルギーをもった言葉なんですって。
そんな大切な日本語を使える人がいなくなったら困るので、そういう観点からも、きちんとした日本語を使える次の世代を育てましょう、と言いたいです。
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