先日、ヒルナノーグに初めてのゲストをお迎えしました。美保さんという女性です。
一泊二日のリトリートを終えて帰られた次の日、彼女からこんなメッセージが届きました。早朝に、親戚のかかりつけのお医者様から電話があったそうです。
「なんだか、別の世界の人の声みたいで」。用件のほかは、ほとんど何も残らなかった、と。
以前の美保さんなら、早朝にかかってくる電話に、イラッとしたり、「それ、今わたしに連絡すること?」と胸がざわついたりしていたそうです。リトリート前とリトリート後の自分の比較が、この電話でより明確になったのを感じたとのこと。前だったらイラついていただろう電話が、リトリートの後は、ただの用件として、すっーと通り過ぎていった。
これは、美保さんの性格が急に良くなったわけではありません。(笑)美保さんの神経系が元の状態に戻ったというのが、表現としては正しいのじゃないかと思います。

イライラは、心の狭さのせいじゃない
誰かの言葉や行動にざわつくとき、つい「自分は心が狭い」「余裕がない人間だ」と、自分を責めてしまいがちです。もしくはその反対に、「相手が悪いのだ、だから私がイライラするのは当たり前」とか、攻撃的になってしまうこともあります。
美保さんのお話のように、朝いちばんの、まだ寝ぼけているような状態、交感神経がまだ立ち上がっていないカラダにとって、突然の電話の呼び出し音は、ちょっとした「不意打ち」なんです。余裕がないから、相手の用件よりも先に「なんで今なの」という反応のほうが自然とも言えます。
その瞬間の神経系に、どれだけ受け止めるだけの余白があるかどうかの問題です。
神経系に余裕があるとき、同じ電話は「攻撃」ではなく「ただの用件」になります。美保さんに起きたのは、たぶんそういうこと。
世界が優しくなったのではなく、受け取る側が変わった
イライラしなくて、怒る必要のない世界は優しい世界といえるかも知れません。でも神経系が整うというのは、まわりの世界が優しくなることではなくて、自分の世界を受け止める器が変わったのです。
日常生活では、早朝に電話は鳴るし、不条理な怒りをぶつけてくる相手もいます。相手も用件も昨日と同じ。何ひとつ変わっていない。変わったのは、それを受け取るこちら側の状態だけ。だから「イライラしていた昔のわたし」を、責める必要なくて、ただ神経系に、余白がなかっただけと理解できます。そして余白が戻れば、相手も自分をも苦しめるような反応のほうが勝手に変わります。順番は、いつもカラダが先なのです。
「足の裏に導かれているとしか思えない」と、彼女は来た
美保さんは、ヒルナノーグ正式オープンの初めてのゲストでした。お泊まりは彼女ひとりだけ。
ヨガはまったくの初心者。運動も得意なほうではない、とご自身でおっしゃっていましたが、それでも予約のメッセージには、こんな言葉が並んでいました。
TREはバーセリー博士の動画を見ながら何度か試していて、夜寝る前にやると熟睡できた。去年は一本歯下駄の先生に出会い、今年はマンサンダルを衝動買いし、そして今回のippon bladeがフルリトリートメニューに入っているなんて知らなかったけど「もう足の裏に導かれているとしか思えません」
直感を大切に、二日間を楽しみたい――そう言って、彼女はこちらへ来てくれました。
部屋には時計がありません。セッションや食事の時間になると、廊下でティンシャの音が鳴って、その音にうながされて動き出します。スマホはケースにしまって、セッションとセッションの間の時間もヒルナノーグの世界にとどまることができます。TRE、仰臥での瞑想、翌朝のippon blade体験。野菜中心の夕食に、高原を吹き抜ける涼しい風など。「セッションだけでなく、場所も、風も、たどり着くまでの風景も、全部ふくめてフルリトリートだった」と、彼女はあとで書いてくれました。
「見た途端に、震えが止まった」

TREのセッションで、こんなことがありました。
カラダに本来そなわっている神経性の震えが始まって、美保さんの脚が、動きはじめた頃。ワタシが「その揺れているところに、そっと意識の目を向けてみて」と声をかけました。すると、その瞬間に、ぴたっと震えが止まったのです。
「見た途端に震えが止まった事が忘れられません。」
これをとても大切な反応だと思っています。美保さんにもお話ししたのですが、ずっと意識を向けられてこなかったカラダが、急に「見られた」ことに対して、えっ、と身をすくめることがあります。知らない人にいきなりじーっと見つめられると、きゅっと縮こまってしまうことってありませんか?あれと同じことが、自分の意識と身体の間で起きたのです。
「自分のカラダを、これまでどれだけ見てこなかったか」が、形として現れた瞬間です。そしてちゃんと見てもらえることに慣れていくと、カラダはより安心を感じることができるのです。
美保さんは、その体験からこんな問いにたどり着いたそうです。「私の鉛筆、私のスマホ、私のコップ。これは別々。じゃあ『私の体』は? 一緒だけど、一緒じゃない?」。禅問答みたいですよね
自分のカラダは勝手に自分のもの(頭と同化している)と思っているかも知れませんが、
- そのギャップに氣づくこと
- 少し離れて見てあげること
- 一緒だけど、別。
その距離感が、観察のいちばん最初の入り口なのかもしれません。
リトリートは、宿を出てからも続いてい
面白いのは、美保さんの変化が、帰ってからのほうがはっきり出てきたことです。
先述の電話の受け取り方の違いや、「カラダは疲れているのに、大きく広がっている感じ」「朝まで覚えている、リアルな夢をまた見ました」など。
深い夢をたくさん見ることに対して「疲れませんか」と心配していた彼女に、こうお返ししました。
TREやリトリートのように、外からのインプットを減らして、内側に意識を向けるということをやっていると、筋膜にストックされていた過去の感情がゆるんで、アクのように浮いてくることがあります。それを脳が整理するために夢を見ます。なので自分にご苦労さま、ありがとう、って感謝してあげてくださいねー。と。
リトリートだけではなく、深いセッションが終わったあと、数日かけてカラダがゆっくりほどけていくことがあります。眠りが深くなったり、夢をたくさん見たり、身体の感覚が今までとは少し違ったり、あるいは、忘れていた感情がひょっこり顔を出したり、など。
だから「終わった」らおしまいではなくて、家に帰ってからの数日も、まるごとリトリートの続きなんです。
「昨日帰ってきたばかりなのに、もう次はいつ行こうかと考えている自分がいます」。美保さんのこの一言が、ワタシはとても嬉しいです(笑)。
そして、それからもう少し経って届いた美保さんの言葉がこちらです。「もう夢も見なくなって、”健康優良児”みたいに過ごしています」。
涙が出たとか、劇的な何かが起きたわけではなく、ただ静かに、日常に戻っていく。
それこそがいちばん理想的な着地だと思っています。派手な感動体験よりも、なんでもない毎日が、愛おしく大切に思えるようになっていること。

ワタシがしたのは、思い出す手伝い
こうして振り返るとおわかりのように、ワタシは美保さんに何か新しい能力を授けたわけではありません。
早朝の電話を、イライラすることなくただの用件として受け取れる。その反応は、もともと美保さんのカラダのなかにあったもの。ワタシはただ、それを頭ではなくカラダの側から思い出せるように、二日間、隣にいただけです。
もしあなたが、ささいなことにいちいち反応してしまう自分を、心が狭いと責めているのなら、それはあなたがダメなのではなくて、神経系がちょっと、疲れてて過剰反応しているだけ。
なお、こころの深いところがしんどい時期にいる方は、どうかひとりで抱え込まず、専門の医療機関にも頼ってくださいね。リトリートやヨガは、お医者さんの代わりにはなりません。そのことだけ、そっと添えておきます。
Q&A
Q1:ヨガも運動も苦手ですが、大丈夫でしょうか?
A:大丈夫です。美保さんもヨガは初めてでした。ワタシ自身、子どもの頃は体育がいちばん苦手でした。上手さや柔らかさを競う場所ではないので、どうぞそのままのカラダでいらしてください。
Q2:ひとりでの参加は、寂しくないですか?
A:はじめてのゲストの美保さんも、おひとりでした。むしろ誰にも合わせなくていい時間が、自分の内側と向き合う助けになります。たとえ多くても5人の少人数なので、ひとりの静けさは守られます。
Q3:効果は、その場で感じられるものですか?
A:脚が軽い、その夜よく眠れた、という声は当日からよくいただきます。ただ、大きな変化は帰宅後の数日かけて出てくることもあります。すぐ何も起きなくても、カラダは働いてくれています。
Q4:「反応が変わる」って、具体的にどういうことでしょう?
A:出来事は同じでも、それに対する心のざわつき方がゆるむ、という感じです。美保さんの場合は、早朝の電話にイライラしなくなった、という形で現れました。
高原で、あなたの神経系にも余白を
長野県原村の八ヶ岳山麓に、リトリートの場「ヒルナノーグ」を開きました。ケルト神話の理想郷・常若の国から名づけた、小さな宿です。魂は歳を取らない。魂のまま生きる場所。そんな意味を込めました。
どんな場所なのか、どんな二日間になるのかは、「ここへ来てください、と言える場所ができました」に書いています。神経系がなぜ「反応」を決めるのかについては、「頑張りすぎる神経系の地図」もあわせて読んでみてください。
リトリートの先行案内は、公式LINEだけでお届けしています。「わたしにもどうかしら?」という質問だけでも、氣軽にメッセージくださいね。扉は、開けてあります。



