瞑想と祈りをつなぐカギ
こんにちは。瞑想のガイドをさせたらピカイチのカオンです。
瞑想をやりたいとか、苦手だなと思う方に、瞑想が好きになるとか、今よりも上手くなることを、あれこれ書いています。
今日は、瞑想しているけれど、なんか今ひとつパッとしないと感じている方に、在り方はもちろんやり方についてお話ししてみようかなと思います。
「宗教」と「宗教的」の違いについて
以前どこかで書いたと記憶しているのですが、『祈りは神さまへ話しかける時間で、瞑想は神さまからお返事をもらう時間』という考え方を私はしています。
祈りや神という言葉をすぐに宗教と結びつけられてしまうのは残念なので、ここでちょっと宗教と宗教的というのを分けて説明してみたいと思います。実際の言葉の意味というよりはワタシはこんな風に言葉の意味づけをして使い分けているというのを知っていただければと思います。
「宗教」とは?
「宗教」とは、体系化された教えや教義を持ち、それを信じ、実践することを前提とした枠組みだと思います。多くの場合、特定の神や悟りの境地を目指し、戒律や信仰を通じて精神的な成長を促すものとして機能しています。そのため、「信じること」や「教えに従うこと」が求められる場面も少なくありません。
「宗教的」とは?
一方で、「宗教的」というのは、必ずしも特定の宗教に属していなくても、大いなる何か(宇宙・自然・生命の摂理など)に対する畏敬の念を持ち、そこに意味やつながりを見出す姿勢のことを指します。これは、「委ねる力」や「信頼する心の土壌」ともいえます。たとえば、自然の流れに身を任せる感覚や、すべての出来事には深い意味があると捉える態度も、宗教的な視点です。
ワタシ的には「宗教」は枠組みの中で閉じられている感じで、「宗教的」は枠を超えて、人生を深く捉え、信頼する姿勢を育むことと言葉を使っています。なので、宗教という言葉よりも宗教的という表現をよく使い、「宗教的に生きる」ことはとても重要なことだと思っています。
瞑想を深めるための実践としての祈り
今までは祈りという言葉を、あえてあまり使わないようにしながらも宗教的な生き方を提示するような説明を【在り方】の提案として色々お話ししてきました。先日から【霊性】という言葉を使いますよ、と宣言もしたので、今回も【祈り】という言葉もあえて使おうと思います。
今よりもワンランク瞑想を進化させたいなら、瞑想の前に祈りに相当することをやってみませんか?
祈りが瞑想を深化させる
ここで、冒頭の『祈りは神さまへ話しかける時間で、瞑想は神さまからお返事をもらう時間』という考え方を引いてくると、瞑想を完成させるためには祈りが必要だということになりますよね。
実際に、祈りの言葉を唱えるとか、祈る行為をしなくても、少なくとも宗教的な物事の捉え方は必要だと、私は自分で、実践しながら感じています。
瞑想の前に行う祈りを考える
先ほども書きましたが、宗教的とは、大いなる何か(宇宙・自然・生命の摂理など)に対する畏敬の念を持ち、そこに意味やつながりを見出す姿勢のことを指します。これは、「委ねる力」や「信頼する心の土壌」ともいえます。
たとえば、自然の流れに身を任せる感覚や、すべての出来事には深い意味があると捉える態度など。キーワードを選んでみると「畏敬の念をもつ」とか「委ねる」とかでしょうか。
これらを自分なりの言葉を作って自分の祈りの言葉を作ってみるのもいいかと思います。
もちろん既存のものを使ってもいいですよ。
有名なところでは『主の祈り』ヨガ的だったら『ガヤトリマントラ』などいかがでしょうか?
主の祈りとガヤトリマントラ
ご存知ない方は二つは全然違うものだと思うかもしれませんが、ワタシが前述した「大いなるものへの畏敬の念と、そこと繋がることを熱望し委ねる」という主旨の宣言のような、お願い文のような内容になっています。
せっかくなので、ざっくりとですがその似ている点をまとめてみます。
主の祈り(The Lord’s Prayer)
キリスト教における最も重要な祈りの一つであり、イエス・キリストが弟子たちに教えた祈りです。マタイによる福音書 6:9–13 に記されています。
主の祈り(日本語訳の一例)
天にまします我らの父よ、
願わくは、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天に行われるごとく、地にも行われますように。
我らの日ごとの糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
ガヤトリーマントラ(Gayatri Mantra)
ヴェーダの中でも特に神聖とされるリグ・ヴェーダ(3.62.10)に記されたマントラで、ヒンドゥー教徒が日々唱える祈りの一つです。
Om Bhur Bhuvah Swaha
Tat Savitur Varenyam
Bhargo Devasya Dhīmahi
Dhiyo Yo Nah Prachodayāt
オーム。三界(地・大気・天)を司る至高なる神よ、
あなたの神聖なる輝きを瞑想いたします。
どうか私たちの知性を照らし、導いてください。
両者の共通点とポイント
- 神聖な存在への呼びかけ(畏敬の念)
- 「天にまします我らの父(Our Father, who art in heaven)」
- 「オーム。三界を司る神よ(Om Bhur Bhuvah Swaha)」
- 神の意志が世界に行き渡ることを願う
- 「御心が天に行われるごとく、地にも行われますように」
- 「あなたの神聖なる輝きを瞑想いたします」
- 霊的な成長と智慧の光を求める
- 「我らを試みにあわせず、悪より救いたまえ」
- 「どうか私たちの知性を照らし、導いてください」
- 神の栄光とその影響を認める
- 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」
- 「あなたの神聖なる輝きを瞑想いたします」
共通点として幾つか挙げましたが、背景やアプローチには違いがあります。ここではそれは割愛します。よって、同じものではないということを改めてご留意ください。
異なる部分があるにしても、両方とも「神聖な存在に対して、自らを導き、智慧を授け、より良い存在へと成長させてほしいと願う祈り」 だということがわかると思います。
特に、「神の意志(智慧・光)が私たちを導くように」という核心部分において、大きな共通点があります。
これが、瞑想(神様の声を聞く)前にするための祈りとなるのです。
祈りを取り入れて瞑想の深みを体験しよう
かくいうワタシは、祈るような(宗教的)生活を自らしているつもりだったので、日常的な瞑想の前には特別に祈るということはしていませんでした。
が、初心に戻ってきちんと祈りをしてから瞑想するようにしてみたら、瞑想の深度が変わったり、日常の心持ちにも変化を感じたので、これは皆さんにお伝えしたいなと思いました。
瞑想に興味がある方は是非試してみてくださいね。
ヨガと祈りがもたらす副交感神経優位の効果
それと、これはちょっと蛇足になりますが、畏敬の念を持つことは実は副交感神経を優位にします。きちんとグランディングされた状態で副交感神経が活性化すると(細かいことはここでは説明しませんが)、実は変性意識状態を作り出します。
そうなると、リアルに神様の声が聞こえてくるかもしれませんね。(笑)
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